今年は第一次世界大戦が終わって100年です。
「WW1の終結とは、長い19世紀の終わりである」と何かの本で読みました。
1789年のフランス革命に端を発するアンシャンレジーム(旧体制)の崩壊が、129年経ってようやく達成されたわけです。
1919年のヴェルサイユ条約を経て新たな世界体制となったわけですが、それが更なる大戦争を生んだのはご存知の通り。
2つの大戦、革命、公民権運動、カウンターカルチャー、テクノロジーの飛躍的進歩……
20世紀をひと言で表すのは不可能ですが、「激動」であったのは間違いなく、1万年と2千年後の未来であっても語り草となっているでしょう。
そんな20世紀も、あまりにタイミングよく発生した同時多発テロとそれに連なるイラク戦争、そしてインターネットの爆発的普及によって、幕を閉じました。
しかしそれは、あくまで「表面的」にです。
人々は変わったのか?
20世紀から脱却して、「21世紀人」になれたのか?
答えはもちろんNO。
旧来の固定観念に縛られて、鬱屈した日々を生きている。
21世紀という時代環境に、適応できていない。
まるで海水に放られた淡水魚のようです。
先生と20世紀
20世紀の価値観……わたしはその象徴のひとつに「先生」なるものを挙げます。
学校の先生、病院の先生、弁護士の先生、作家の先生……
どれも近代の産物です。
そしてこれからの時代は、様々な要因によって「先生」が消えていく。
たとえばかつて、小説家は「先生」と呼ばれるのが常識でした。
音楽家や美術家といった芸術界隈の大家もそうです。
社会通念的に、彼らは一段上の存在として扱われていた。
なぜなら、特殊技術を持った「特権階級の人々」と認識されていたから。
しかし誰もが作家になれる今、その価値は相対的に急落しました。
べつに「先生」と呼ぶ必要がなくなった。
だって誰も彼もが特殊技術を持つことができて、それを発表する場が与えられたわけだから。
医者や弁護士も、その意味で言えば同じです。
人工知能は日進月歩で進化しています。
コンビニの中に病院や法律事務所ができる時代は、そう遠くありません。
だから、「先生」と呼ぶ人がいなくなる。
コンピューターに「先生」と敬称付けて呼びませんよね。
そんなことを言うと、首を傾げる人も多いでしょう。
ですが、考えてみてください、技術=環境の変化は、わたし達自身も変えるのです。
10年前にスマホを持ってSNSをしていましたか?
20年前にインターネットで買い物をしていましたか?
過去や固定観念に拘泥するのは、いい加減卒業すべきです。
新しい技術と時代の潮流を素直に受け入れ、上手く使ってやるのです。
半世紀以上前、エレキギターを手にしたバンドのように。
あるいは、サンプリングを使い倒したヒップホップの連中のように。
写真は、大阪吹田市にあるEXPO’70 パビリオン。
各国のコンパニオンの制服を着たマネキンです。
これを見るだけでも「未来」をいかに夢見ていたかが、伝わってきます。
良いところですよ、万博公園。